『新選組剣豪秘話』には、福地桜痴を情報源とした新選組のこれまで知られていなかったエピソードが数多く語られています。
しかし、これまでの記事でもご存じのとおり、伊庭八郎は新選組と付き合いはなく、吉原大喧嘩も近藤勇の喧嘩だったかもしれず、流泉小史は桜痴の弟子ではなかった可能性が高くなりました。
桜痴は小史になにを語ったのでしょう。
そして、桜痴は新選組、特に近藤勇とどのような付き合いがあったのでしょうか。
今回も、『新選組剣豪秘話』の重箱の隅をつつきながら、考えてみたいと思います。
◆桜痴はなにを話していたのか
『剣豪秘話』の中に、桜痴が歌舞伎座の作者部屋で俳優や年少の子弟に近藤勇の話をしていた、という一文があります。
周囲に話をしていたのであれば、それを書き残している人がいるのではないかと、桜痴に近い人物を当たってみたのですが、筆者の見た限り、新選組にまつわる話は見つけられませんでした。
その中に塚原渋柿園がいました。
渋柿園は明治の小説家ですが、もともとは幕臣でした。
「沖田総司の江戸」の記事でも触れましたが、家は試衛館の近くでした。
幕末は京都にいたこともあり、伊庭八郎とも遠縁という、まさに新選組の時代を生きた方です。
渋柿園の著作の中に『他流試合』という近藤勇の出てくる作品がありますが、桜痴が語ったような話は書かれていませんでした。
◆桜痴と『日本外史』
渋柿園は明治になって新聞記者となり、桜痴とは十年間日々顔を合わせていたそうです。
非常に近い存在だったようで、福地桜痴が亡くなった時に追悼インタビューを受けています。
桜痴の人柄などを話しているのですが、その中に気になる箇所がありました。
「(桜痴は)「日本外史」が大嫌ひ――先生一体日本人の書いた漢文といふものが極嫌ひでしたが、其序には何時でも此の外史が引合に出た、(略)此れ程日本に結構な文章が有るのに、何を苦しむで他国の文字(漢文)で我国の歴史を書いたのか山陽といふ男も解らん男だ(略)」
(旧字は常用漢字で表記しています)
と、桜痴は頼山陽の『日本外史』が大嫌いだったというのです。
ところが、『剣豪秘話』の中では桜痴は近藤勇の書斎を訪れた際に
「桜痴居士をして驚かしめた、近藤が机の上に写しかけの半開きのままにしてあった二巻というものは、(略)山陽の『日本外史』で、(略)しかも今日のように安価なものではなく、両金をださぬと手に入らなかったもので」
「木剣や竹刀以外、筆など殆ど手にしたことのなさそうに思われる近藤の机の上に、それが写しかけのまま半開きになってあるのだ」
と、勉強しそうにもない近藤が勉強していたこと、さらにそれが『日本外史』であったこと、高額な文具を使用していたことに驚き、
「『やはり一方の将器だけはあると、睨んではいたが…』」
と感心した、とあります。
お金をかけていることに感心した、ともとれる文章なのですが、好意的であるのは確かです。
『日本外史』を大嫌いな、あの福地桜痴が一言も注文をつけず、感心するものでしょうか。
「勉強するのは感心だが、『日本外史』はいただけない。あんなものを両金だして買うなんて」
とでも言いそうに思うのですが…。
本当に桜痴は試衛館を訪れていたのでしょうか。
次回、引き続き考えたいと思います。
【今回の引用・参考文献等】(敬称略)
・新選組剣豪秘話 流泉小史 新人物往来社
・「他流試合」 (渋柿叢書 (名家小説文庫 ; 第3編) )塚原渋柿園 博文館 (国会図書館デジタルコレクション)
・櫻痴居士の紀念 (早稲田文学 [第2期] (2);明治39年2月之卷) 早稲田文学社